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○気になる人
小、中、高と公立の学校に通い、夏期や冬期の講習で予備校に通うようになったのは、高校二年の終わりごろからだった。案の定、志望した大学に落ち、通うことになった予備校は国電（現ＪＲ）大塚駅近くにあった。
浪人生活は苦役だった。とにかく受験に合格するだけのために1年間を費やするなんて、今ふりかえってもぞっとする。ベビーブーマー世代だからどこへ行っても満員という事態が、さらに輪をかけた。予備校もまた、ぎゅう詰めの授業だった。
青春時代の暗い妄想や衝動を抱えていたが、それでも大学進学のコースを蹴飛ばすような大胆さはもちあわせていなかった。それなりにちゃんと予備校に通っていたのだ。
あの時代の1年間で覚えていることはほとんどない。つまらない断片的なシーンがいくつか浮かぶくらいだ。予備校からの帰り、池袋駅で乗換の架橋歩道を歩いていたら、デパートの電光掲示板ニュースに、「亀井勝一郎、死亡」のニュースが流れていた。『愛の無常について』とか『大和古寺風物詩』など一時ずいぶん熱中したこともあったが、その熱ももう冷めていたころのことだ。
でも、予備校には気になる人がひとりいた。明るくて華やかな感じのする女の子だった。いつもボーイフレンドに囲まれている姿を、遠くから眺めるだけだったが、予備校に通う楽しみはそれくらいだったかもしれない。（ちなみにその子には1年後、同じ大学の同じ学部構内でばったり出会ったのだが、以前と同じようにボーイフレンドに囲まれていた。しかも、わたしがどうしても反発を覚えざるをえない党派系に属し、党派間の争いの渦に巻きこまれているうちに、いつの間にその姿をみなくなってしまった）。
○「フェルディナン、手を貸して」
「忘れがたき人」としてとりあげたいのは、その女の子ではない。予備校の男性講師だ。しかも、当時御年80歳にはなろうか、いや達していたかもしれない高齢の先生。
痩せて小柄、短めに刈り上げた髪で、ちょび髭を伸ばし、頬には大きな滲みがあった。名前は忘れてしまった。
予備校での授業は、英語や古文、漢文などの講習を受けてみると、なるほど、そういうものか、と納得したものだ。受験勉強のコツがベテラン講師によって披露されるのだったが、この先生は英語を教えていた。たいへんな高齢で「だいじょうぶかいな」というのが、はじめて机に手をついて教壇にあがったお姿を拝見したときの率直な印象だった。入試試験にはその時代ごとの傾向があるので、この先生、時代に対応した最新の教え方をしてくれるのかな、とも不安だった。
しかし、講義を聴いていると、それなりにツボを押さえた授業であることがわかった。時代を超越したコツがあるのだぞ、と確信しているようでもあった。
お陰で、ずいぶん「受験英語力」は増した。ときおり交える、ほんのりしたユーモアは、10代で気が急いていたわたしすら、にやっとさせるものだった。かわいいお爺ちゃんという雰囲気も漂わせていた。
小柄なので、強い風が吹いてきたら、とばされてしまいそうな、そんな先生のことを想い出すと、ゴダールの『気狂いピエロ』の一シーンと重なってしまう。
フェルディナン（ジャン・ポール・ベルモンド）がマリアンヌ（アンナ・カリーナ）を探して南仏をさまよっているとき、港でどこかの国から亡命してきた「王女」と自称するおばあちゃんに出会い、その雇われ人になっている場面。小柄で細いその老「王女」は、ヨットハーバーでフェルディナンに呼びかける。「舟が揺れるとわたしの体が飛ぶから、おさえておくれ。わたしはとても軽いの、フェルディナン。手を貸して」と、しわがれ声で叫んでいた。
失礼ながら、その老女と高齢講師のイメージがなぜかつながってしまう。先生も強い海風が吹いたら飛ばされしまいそうな存在にみえた。
でも、それだけではないものがうかがえた。
○高齢社会の生き方の先駆
先生の姿は校外でも見かけた。予備校のある大塚駅。当時はエレベータもエスカレータも当然なかった。先生は必ず手すりにつかまりながら、ゆっくりと階段を上り下りしていた。そんな姿を駅で何度か見かけたことがある。予備校にだって階段がある。週何日かは予備校に通っていたのだから、その都度、駅の階段や学校の階段の上り下りを、手すりにつかまってしていたことになる。
なぜそんなに高齢にまでなって、と当時のわたしは思ったが、同時に役に立つ授業をしてくれているのだから、感心もし、かわいらしく、親しみも感じていた。歳をとると、男はますます強ばり硬くなりがちだ。わたしも免れない。でも、先生には軽さがあった。
先生の姿には「稼ぎ」をしているという雰囲気はうかがえなかった。半ば趣味であり、半ば健康法であり、役立っていることで生きがいも見いだしていたのだろう。わたし自身もたくさん歳を重ねてきて、あの先生とそう遠くはない段階になって、しだいにみえてくるものがある。なかなかできない生き方だな、と。
先生の働く姿は、そのあと間もなく訪れた高齢社会における生き方のみごとな先駆だった。
その後のことはまったく知らないが、きっと大往生だったにちがいない。
（2013-6-8）
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